定期試験が終わりました。
今日、近隣の中学校の定期試験が終わりました。直前で体験で来てくれる子もいて、ちょっと詰め込みすぎたかもしれないな、と思いつつも、できることは全てやった上で試験に臨んでくれました。少しでも成果や手応えにつながっていてほしい、と切に願います。
チラシ配りをしていたときのこと
さて話は変わり、先日中学校の通学路付近でチラシを配っていたときの話です。
チラシを配っていると、無視して過ぎ去っていく子もいれば、丁寧に「結構です」と頭を下げて断ってくれる子もいれば、チラシの内容に興味を持って受け取ってくれる子もいます。そしてほとんどの子は受け取ってくれません。だからこそ、興味を持って受け取ってくれる子がいると、無性に嬉しくなります。
ただその日は、チラシを受け取ってくれた!とちょっと喜んでいたら、配っている私が見える場所で、そのチラシをぐしゃぐしゃにして、その場に捨てて帰っていく子がいました。これに私はひどく傷つきました。
チラシもタダで刷っているわけではありませんし、そもそもチラシの内容というのはそれを作った人が魂を込めて作っています。私も例外ではありません。そうやって自分の魂がこもったものを、目の前で酷い扱いを受けると、なんだか私の尊厳まで踏み躙られているような感覚になり、そのことに深い痛みを感じました。
集団の中の”自分の立ち位置を確認する”行為
中学生や高校生の中には(大学生や大人でも一部そうかもしれませんが)、集団になると人が変わったように他者に攻撃的になる、という現象がしばしば起こります。それはおそらく、その子がその集団の中で、「自分は優位な位置にいる」ということをアピールするための、一種のマウンティング的な行動だと考えられます。そしてそのマウンティングの1つの手法として、他人を傷つけ尊厳を踏み躙ることで、「自分は他人を傷つけられるぐらい強いのだ」ということを、自分に対しても他の集団の仲間に対してもアピールすることで、自分の位置を確認しているのだと思います。
そしてこれは、まさにいじめが生まれる構造そのものだったりもします。いじめっ子は、いじめられっ子を攻撃することで、その集団(例えばクラス)の中で、「自分は人を攻撃できるほど強いのだ」と、自分の位置を確認しているのです。
「結構です」と言ってくれるだけでいい。〜他者への配慮〜
チラシを捨てたその子が本当にそういう心理状態にあったのかは分かりません。しかし、別にそのチラシがいらないのであれば、「結構です」や「いらないです」と一言言えば、お互い気持ちよく終われるのにな、と思います。
もしくは無視するか、受け取った上でやっぱりいらないと思うのであれば、家に帰ってから捨てればいい。わざわざ配っている人の見ている前で、ぐしゃぐしゃにして捨てる必要はない(例えそれが、チラシを作った本人でなくとも)。それが他者に対する配慮だと思います。
こういった「他者への配慮」というものを、その子も今後、大人になっていく過程で身につけていってほしいなと、(見知らぬ人間である私が願うのも変ですが)これまた切に願います。
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